昨日(2024/5/18)、CTOである私の起業家になるというきっかけを作ってくれた最も身近な創業者の祖父が亡くなりました。ご冥福をお祈りします。
祖父は岐阜県大垣市に本社がある建物の基礎工事や道路工事会社の創業者で、20~30人ぐらいの社員を抱える経営者でした。小学生の頃は、岐阜の田舎の中小企業の社長ということで、大したことないから自分の方がもっと大きな会社が作れると思っていたことがありました。しかし、ちょうど一年前に自分の会社(浅原技研)を同じく岐阜県大垣市で創業し、起業の大変さ、社員を抱えることの大変さを身をもって経験しました。今では、地方・都会、大小関わらず起業した勇気ある経営者を尊敬しております。
1.小学生時代
よく祖父とご飯に行き、会社の仕事の話を聞いていました。また、「運動でも勉強でも何でもいい。とにかく、自分が得意だと思うものを見つけて、日本一・世界一を目指せ。じいちゃんは、お前たちに投資をする」とご飯の時に良く言われていました。小学5年生の時に周りよりも数学が得意だと何となく気づき始め、海外で働いたり、海外で遊ぶ祖父の話を聞くことで、自分も世界で活躍する数学者か経営者になりたいと、このころから思っていました。これが起業家になるという人生をスタートさせたルーツなのかもしれません。
2.中学・高校時代
小学生の時と同じく中学・高校の中でも、日本全体でも数学が得意だと気付いていましたが、実際どのように社会に役立てれば良いのかが分からず悩んでいたのがこの時期でした。数学が得意で世界で活躍する経営者になりたいなら何となく文系の経営学部とかに行ったら良いのかと考えていたぐらいでした。自分でも良く分からないから文系の経営学部と理系の工学部(光、電気、機械、ソフトウェアを幅広く学ぶ学部)を受けて受かった方に行くと決め、経営学部の第一志望に落ちて第二希望の工学部に受かったので、理系の大学に進みました。ちなみに、この第一志望の大学に同じく落ちて、第二志望の文系の経営学部に行ったのが弊社のCEOの浅野です。ここで同じ大学に行かず、理系・文系に分かれたことにより、浅原技研という会社が生まれました。そう考えると第一志望の大学に受からなくても、人生終わったと考えるにはまだ早いとポジティブに考えても良いのかと思います。
3.大学時代
大学の4年間過ごしても自分が学んできたものをどう企業に役立てればよいのかが分からず、どこの会社を受けても受からないということで、大学院に進んでいました。ここで恩師と出会い、自分が得意だと感じていた数学が画像検査・計測システムを作るうえで重要な知識であると気付きました。また、自分たちが作った技術や製品を企業の現場に適用するという今と同じ仕事をこのころからやっており、現場適用までやり切る能力が周りよりも高いと感じていました。「画像検査・計測技術を現場適用する」これが私が見つけた日本一・世界一を目指せる分野だと24歳で気づき、いつか祖父のように挑戦したいと思うようになっていました。
4.社会人時代
ヒューテック(画像検査装置メーカー)、ニデック(総合モーターメーカー)、福井大学、JEインターナショナル(画像検査装置メーカー)を経て、画像検査・計測技術の実践的な技術を習得するとともに画像検査・計測ビジネスの難しさも実感していました。なかなか起業するという所までいけず、悩んでいました。この私が悩んでいた内容を補える存在、それが弊社のCEOの浅野でした。どれだけ優れた技術でも、商売センスが無ければ成功できない。これがビジネスです。私の弱い商売センス、ビジネス戦略の分野の能力が高い浅野とタッグを組むことで、浅原技研は誕生しました。私たちは共同創業で成長可能と判断しましたが、一人で創業した祖父などの人たちは半世紀も会社を存続させ、成長させてきており、凄いと感じました。
5.未来
私は祖父から影響を受け、平田社長、永守社長、藤垣教授、金社長など様々な創業者の影響を受けることにより起業家になりたいという意志が強くなっていきました。自分も子、孫、これから弊社に関わる若い人など一人でも多くの人に起業家という道を後押しし、勇気ある経営者候補に影響力を与えられる存在になりたいと思っています。日本の未来、そして世界の未来が明るくなるように浅原技研は、これからも成長します。人はいつかは「死」ぬけど、思いなどは「生」き続ける。「生と死」を悲観的にとらえるのではなく、前向きに考える。自分の人生良かったなと感じられるように祖父のように死ぬまで仕事をやり切りたいと思います。
そして最後に「おじいちゃん、ありがとう」